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万引き家族感想(ネタバレ)

最近の映画はあまり書かないと言ったような気がするのですが、最近の映画ばかりの感想になってしまい恐縮です。さて、今回は万引き家族の感想。詳しいレビューや考察は他のレビューサイトをごらん頂くとして、以下、イントロダクション。

 

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三度目の殺人」「海街diary」の是枝裕和監督が、家族ぐるみで軽犯罪を重ねる一家の姿を通して、人と人とのつながりを描いたヒューマンドラマ。2018年・第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、日本映画としては1997年の「うなぎ」以来21年ぶりとなる、最高賞のパルムドールを受賞した。東京の下町。高層マンションの谷間に取り残されたように建つ古い平屋に、家主である初枝の年金を目当てに、治と信代の夫婦、息子の祥太、信代の妹の亜紀が暮らしていた。彼らは初枝の年金では足りない生活費を万引きで稼ぐという、社会の底辺にいるような一家だったが、いつも笑いが絶えない日々を送っている。そんなある冬の日、近所の団地の廊下で震えていた幼い女の子を見かねた治が家に連れ帰り、信代が娘として育てることに。そして、ある事件をきっかけに仲の良かった家族はバラバラになっていき、それぞれが抱える秘密や願いが明らかになっていく。息子とともに万引きを繰り返す父親・治にリリー・フランキー、初枝役に樹木希林と是枝組常連のキャストに加え、信江役の安藤サクラ、信江の妹・亜紀役の松岡茉優らが是枝作品に初参加した。(映画.comより)

 

予告編


【公式】『万引き家族』大ヒット上映中!/本予告(パルムドール受賞)

 

 

感想

カンヌ・パルムドールを獲得しただけあって素晴らしい映画でした。

家族って何でしょうね?信じて守るべきものと言う人がいれば、血の繋がりと言う半ば呪いにも等しいコミュニティと思う人もいると思います。是枝監督がこれまで描いてきた家族の中でも特に複雑で難解な関係性だったと思います。

こうした犯罪にまで踏み込むギリギリを超えた生活をする弱者に、いかに寄り添っていける社会になるか?それがこの映画が語りかけるテーマだったように思います。以下、取り留めのない感想になってしまいました。 

 

備忘録

概要

この映画で描かれているのは、独力では生きていくことができない社会的弱者達が擬似家族を築いて、寄り合って生きていくというお話です。しかし貧困を失敗者の自己責任で終わらせてしまうこの社会で、血縁も法的根拠もないワーキングプアの彼らが日々を生き抜く為の手段として万引き等の軽犯罪が描かれています。

「こういう人達を観て、あなたはどう感じましたか?」

この映画の主題は決して善悪を論じる事では無く(万引きが悪い事だなんて議論の余地もないから)、犯罪でしか繋がれなかった絆で明るく生きる家族を観た私達に対する問いかけです。

 

抜け出せない貧困ー社会福祉から見放された人々と、家族というコミュニティから弾かれた人々 ー

治は信代の店のお客さんだったころ、信代の夫を殺害しています。

信代を夫のDVから助けるため、”裁判では”正当防衛だったとはいえ、人を殺した過去は重くのしかかり、信代と共に偽名で生活するもまともに仕事を得ることもできず、治は危険な日雇いで、信代はクリーニング工場で少ない収入を得ています。それでも足りない分を補うために、食料や日用品の万引きを繰り返しています。しかし治は仕事中に右足の怪我で失職(しかも労災が降りない)、信代もクリーニング工場をクビになり収入を失ってしまいます。その後は仕事に就くこともなく、高級釣竿など高額品の万引きと転売、初枝の死後は車上荒しと次第に犯行がエスカレートしていきます。

更に祥太が 松戸のパチンコ屋で両親に車に置き去りされていた所を、車上荒らしをしていた治に連れ去られる形で助け、両親から虐待されベランダに放置されていたリンを、やはり誘拐という形で家に向かえます。

初枝の元夫の新しい家族の娘で、理由は不明ですが(恐らく妹のさやかに対するコンプレックス)家出をして、初枝に誘われる形で家族になった亜紀はjk見学店で収入を得ても家にお金を入れていません。

 初枝の年金と元夫の今の家族から巻き上げた金があるとはいえ、血縁も法的根拠も無い家族が、満足に暮らせる訳がありません。

結果手を染めた犯罪でしか家族の繋がりを維持できなかった事をどう捉えますか?

これは社会の裏側なんかでは無く、僕らがいつ転落してもおかしくない社会の延長に位置する存在なのです。 社会が見て見ぬフリをしているだけなのです。

 

善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや

この映画を観た時の第一印象は「悪人正機」でした。

この家族における悪とは単に犯罪行為に手を染める悪ではなく、善を為そうにも本質的な善悪が判断出来ない為、目先の善悪で判断してしまう悪です。

業の肯定と一切の凡夫救済が悪人正機の本質だとすれば、この家族は真っ先に救済されるべき存在なのです。そもそも僕ら人間はみんな煩悩塗れの悪果悪報に苦しむ悪人なのだから、宗教的救済を抜きにしてもやはり我々悪人たちの共同体としての社会が支えてあげるべきだと思います。

  

ありがとうございました

なぜ初枝は何のつながりもない人々に家を提供して家族を形成したのでしょうか?

地上げ屋から立ち退きを迫られているも、元夫の思い出がある家を残したいし、維持継続していくためにも家族というコミュニティに拘ったのでしょうか。単純に家族を欲したのでしょうか?動機は分からないですが、家族に全員で海水浴へ出かけたときの、初枝の声にならない最期のセリフに象徴されてたと思います。入れ歯を外してそっと言っているので全く聞き取れないですが「ありがとうございました」そう言っているように見えました。

 

正論が人を追い詰める

 後半、家族の姿が白日の下に晒されます。

 治や信代は警察からの聴取を受け、その度に諭されます。

「万引きを教えることに後ろめたさは無かったのか?」

「子供たちはあなたのことを何て呼んでました?ママ?おかあさん?」

そんな事は分かっているのです。

「教えてあげられることはこれしかないし」

「さあ。なんだったんでしょうね」

そう答えるしかないのです。これまで目先の善悪で判断して来たのだから。

 

お前のあの弟は死んでいたのに生き返った

もうひとつ映画を観て思い当たる話に、新訳聖書の放蕩息子のたとえ話というのがあります。

大多数の人は兄の立場を支持すると思います。僕も同様です。

しかし自分は我に返った(真っ当な人間に立ち返った)弟を非難できるようなモラリストではないし、あの家族を断罪できるほど真っ当な生き方をしていません。

 捕まって我に返った治と信代は、これから生き返る為の第一歩を踏み出したのだと思います。映画のラスト、りんがベランダの外を覗いた視線の先には、生き返った人がいるのかもしれないし、会えるのを待っている姿なのかもしれません。

「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」

 

神でも仏でもない 

法や社会は本来弱者を守るために存在するべきだと思います。

 しかし、どんなに素晴らしい法律や社会でも、すべての弱者を助けることはできません。そこには必ず弾かれてしまう人達が出てきます。そういう人たちを助ける最後のシステムは神でも仏でもない、私たち人間の情理、人情ではないでしょうか?

7代目立川談志は落語は人間の業の肯定であるといいました。業の深い愚か者が義理と人情に葛藤する落語は、貧困層ばかりの江戸時代の庶民に寄り添って存在し続けました。治達家族は貧乏長屋の縮図であり、貧困のループから抜け出せないでいます。

持てる者は 貧困層に自らの清貧像に押し込めようとせず、そこから這い上がろうとする者を贅沢は敵の発想で叩くのでもなく、義理と人情に挟まれ、悩みながら一緒に寄り添っていくべきだと思いました。